再度。

ながらはダメです。集中力もかけますし、それよりも自分ができていると思っているのは自分だけで、とりあえずと言う感じで、よくありません。それこそ、日本の古来からの、ものにも心があると言う考えを無視したことです。そして、また、自分にも付加を与え、だから、体を壊している状態です。どんなに焦っていても、です。確実に正しく、仕事をクリアしていくことこそ、自分の能力をたかめる条件です。仕事のできる人にながらはありません。それは世の中の流行りであって、仕事ができるかどうかは別のことです。目に見えないむを使っているわけですから、それだけの負担はかかっていますので、よく、テレビのコマーシャルでも病気になっていた人は笑いながら、ながらをやっていたといってました。結局、そういうことです。それに気がつくかどうかです。それが仕事のできる最初の条件かと思います。からだが資本と言うことを忘れと言うことです。

 

そして、です。自分は昔、神社にお参りにいきました。2001年のと気です。その時に今の自分にある金額をお参りの時にいれました。いつもは、お金がないときは、本当に10円その他でしたが、今日、思いました。ゆとりがあるときは、お礼をしないとと言うより、おおめにいれると言うことです。それだから、です。よく、お布施でも、極限のお布施とありますが、自分の生活ができないのに、そのお布施の考え方は間違っています。それも、借金をしてもです。そのような宗教があるわけですから。いつの間にか拡大し、その間違った捉え方の仏教で、人がおかしくなると言うことでもあります。なぜに書くかと言うと、今の自分もわかります。しかし、ボリボリボリと言う感じで、あるときには、忘れる状態です。お金にゆとりがあるときに、なぜに買わないかと言うことです。

そして、その年にかつて読んだ仏教の本のところに勉強しに行けました。それだけ、すごいと思っているのにです。最初の年の頃、仏教の雑誌を読み、興味を持ちました。正しい密教についてです。それからと言うのも、お金がなく行けずいに今したが、その年、新年のお参りをしてからです。行けるようになったのは。その間は、我慢でした。その分だけ、SBDとは遠退いていて、その間に起きた人たちの縁もきっと仏教と薄かったのではないでしょうか?だから、時を逃すと言うことはどれだけの時間がずれるということです。怖いです。その時に来る、もしくは、その昔に行ってたらどんな人がいて、ということです。時間がたてば、それなりに、また、その意地悪した人もいなくはありません。普通は、そのようなことはわかるはずです。それで、縁がと思うと、腹がたちます。そして、その宗教によって、人の人生を振り回しているということです。自分たちmは、まだ若いからでしょうか?しかし、こちらは、人を失っています。尊敬、または上にたてる人などです。誰を真似すればいいのか、自分たちがそのようなことをいったときには、すでに誰もいませんし、どうしていいやらです。そして、出来ない、見栄等と言われる筋合いはまったくありません。

宗教とはそのようなものです。できてから、いっても私はまったく興味ありませんし、持ちません。しかし、そのような教えは好きですから、本も好きですし、これは、昔から、そうでした。心の教えを求めていても、合いません。

そして、ボーッとして、眠たくなるもの同じです。これは座禅をしばらくすると、なおります。ボーとしてもしていなくても、睡眠と修行の眠りを理解しないとどんどん落ちていきます。ボーとしていても、だんだんとだらしなくなります。そこのところは、正しい生活に戻す秘訣です。自然になーディが落ちてきていますので、その点気をつけないと、落ちます。

 

そして、です。また別のテレビでは、目が見えなくなった、もと建築のデパート勤めの人がです。最初は微熱、それから、何かの症状が出てきて、それからです。しかし、その間に何かの症状が出る前に、会社をやめ、そして、今度は自分で、会社を立ち上げたそうです。その後と言うことで、タイにいって、漢方薬で数年直したら、目が見えるようになったそうです、。今はタイにいるそうですが、。体は正直です。酷使すると大変なことになります。その点、人の選び方も間違えないようにしないと、それはかなりの昔のことですが、症状がにています。その人は、今は60過ぎていますが、その当時は、まだ、若い時でした。その症状とにていますので、無自性でのこと荷は、気をつけませんと同じ症状が出てきます。ので、過度の疲労だけではすまなくなります。よって、少しでもいいですから、ケアをし、休むことです。心の声を聞かないと、体だけ、酷使し続けるとどうなるかということです。それさえ、自分で、気がつかないと自分が壊れるどころか、一生台無しです。ましてや、それを推奨させる宗教もありますから。よって、自分が疲れたら、休むと言うことをする。それは決して、エゴではなく、自分の健康管理のため、仕事のためです。体が資本と言うことがわかっていないからです。ましてや、自分の生活のためにです。養っていくのは大変と宇井ことです。女性奈良、まだ少しは、わがまま、ききますが、これが、男性となるとです。そのまま、ずっとどうなるのと言う感じです。

今は、その男性も無理をしなければ、手伝いをすることもあるそうです。あちらの生活のなかで、ですが、突然に病気は来ますので、決して、無理はしないように。それが修行と思うしかあありません。心の思いと、行動は繋がらないときもあります。規制できないときもです。思いばかりで、現象が動かないと言うことで、ジレンマも起こしますが、その時ほどです。しっかりと、今あるべきことをし、そして、禅語の、まあ、お茶でもと言う気持ちを忘れずにと言うことです。焦っても仕方ありません。それにそれがすぐできるかともあります。なので、そのことも含めた上での自分との戦いでもあります。自分が遅いからです。それ以上はです。また、それからのことは、また別です。それにも気づくかどうかと言うことです。

よって、いかに我慢するかと言うよりも、今ならまだ、自制できると言うことを利用しないと、落ちたときは、どこまでも落ちますので、いつの間にかきがつかずにです。だから、だらだらとしてしまいと言うこともあります。暴動とはそういうものです。よって、それが切れる前に、空気を読むと言うことを知っているのなら、SBDにおいては、それがルールとなります。そこをわかればです。本来なら、今の自分の精神性のレベルが、すべてを言います。それをです。人から聞いたり、また、嘘をいったりという、三悪しゅのような状況があります。これを末法といっていいのか理解できませんが、それで、自分の心が怠っていたからとか、自分が気がつかないからと言うのはありません。確かに昔の言葉でいうとです。確かに自分が至らないからと言うことはありますが、それは現実でのことで、SBDでは、そこは多少なりとも違いがあります。これはできた人がですが、よって、様々な人が、やっているから、そのようなことが起こるのであって、本来は自分の無意識やそれ以上の修行のためだけです。それは自分の精神性でしかありません。それが、霊性でもあります。故にそれで、きがつかなかったからと、自分を見つめ直す必要はありません。それが、単なる存在と言うことのひとつです。

 

それによって、です。複雑なことが掟も、悪くなっても、それが自分の命綱とも言えます。今度は欠点が自分の身を助けると言うことです。だから、普通は嫌いと言うことが起こります。喧嘩もそうです。すべてです。しかし、それで助刈ればと言うことですので、今はあまり、深く考えない方がいいと思います。反対に自分が好きになることもあります。ラッキーと言って。だから、両親に感謝の気持ちも出てきます。友達や、環境にもです。ただ、無知は嫌です。しかし、残酷は残酷ですが、それはまた、業、カルマンが違うということです。

しかし、天才君の落ちこぼれでも、観なさn言いました。どっか、きが抜けていたところがあったんだなと皆さんいってました。きをつけようと自分も思いました。そして、これも密教の日本語?ともいってしまいました。結局、世俗ですから。社会では、そのようないいわけをする人は嫌われますから。その点きをつけませんと、かつての社会と同じような欠点を持ち合わせてしまいます。これこそ、自分で、といわれます。慣れは怖いです。癖にしたら、もっとです。それこそ、未来永劫になります。前はなかったのにです。