今日は。

昨日からの続きではありませんが。所々思い出します。そして、このときはと聞く。ということです。そして、今またありました。実家でのことをしても、その時に書かせなかったために己の都合もまた狂うということです。それが自業自得ということです。

 

その時にい、嫌がらせをするからそうなったということです。それで、こちらがまつのは、バカなことです。先に進んで当然です。それで、幸せボケ、とか、道楽といわれる筋合いあいません。また、実家でも、その言葉は言わないようにしようと、友達と話していましたが、どうやら、業という言葉を知っていたようです。それで、カルマが同じようにならないためにですが、それで、理解できます。元々の日本のようなことで、心での悪口です。から、それを表現にするかどうかは己の性格です。いったからといって何が変わるか、それは己のことしか変わりません。

 

そして、それは教えないからということで、嫌がらせですが、それは常識が違います。しかし、ということです。そのなかでの試験が受かった人がいるという状況になりました。が、。

 

そうならないようにするには、己たちの努力しかありません。己が負けたら、最後です。そこができるかどうかです。しかし、元々そのようなことが好きで、本を読んだり、している人の方がこのようなことは向いてます。それも、宗教に入らないでのことです。元々、家にはその宗派がきちんとあります。それに基づいてあるはずですかr、あこれといって、教えを学ぶことは必要ないと思いますが、しかし、それ以上となると、また違います。そう簡単に荷はありません。しかし、それをどこで学ぶかということです。それも歴史あるところです。ということで、センスだけでなく、知識として学ぶこともこれからは大切で、この意味は、まちがった教えが広まっている状況であり、きっと、このまま騙される人も多くなります。テロの事件もありますから、。これもいまだに存続していることは事実です。そして、それを利用か、もしくは同じ仲間かということですが、あることはたしかです。これではモラルもかわってきます。また同じことがテロとして起こります。それが、時間がたてば、少しずつ変わっていくということです。

 

それができるかどうかが己たちのしつけでもあります。それは各々の家庭によることです。それを社会でという考えもあるようですが、それはどうかと思います。社会と家庭を一緒にしてはならないと思います。その見方が違うということです。

 

そして、今起こったことでの、2つのことを、ただ私の考えでやっているわけです。書くか、パソコンかということです。別に嫌がらせではなく、己のことです。それをどういうかのことであって、ただの悪口しかありません。私は、それを逆縁にするだけですから。人をけなしておいて、教えてほしいという考えが、信じられないことです。それでは、まるで、心ができているからということを言いたいだけのようにとらえることができます。あんな喧嘩、いやがらせをしていてです。喧嘩でわ刈らない人は、また性格も会いませんというよりも、ばか。喧嘩の種類、タイプが違うだけです。それを私というのかということです。それさえ気がつかないでいる状態です。全くあきれてものが言えない。物もとものがの違いで、それをけなしているようなことです。性格が悪いという一言しかつきません。

日本語の使い方をもっと勉強してということです。恥ずかしい。笑われます。

それで、ばかにされたということですから、話にもなりません。胃ったら、見下し、言わないでいると、調子に乗り、人をばかにする、全く性格の悪い人です。そして、元々の日本語を使うと今度は、同性愛という卯ことです。もしくは、文化の衰退と一言ですむことを、だらだらともしくは、回りには悪くいって、そして、己たちでは、同性愛にするということです。手というべきか、しかし、それさえもわからない人もいることもおかしいです。

来たよ。時々あることですが、これもまた噂をたてるのでしょう。そして、それ以前には別のほうこうでの行動をしてました。テロのことが死刑が起こる前にはです。

 

いつになく、少しずつ動いています。それが、間接的か、直接的かということです。先ほどの件と同じです。それで動いたのでしょう。やり方、方法を知るために、これでは知恵くらべになります。最初から抜かれていたのは、私です。多くがわからないように、情報が漏れないようにするには、その最初の人の多くのやり方で、あとは個人の成長ということの方がいいです。その人の性格、もしくは分析はされますので、。

 

それしかかんがえられないとう頭は、いずれうつになります。自然と壊れますので、放置おいうことです。それをこえたら人それぞれの症状が出るだけです。

 

それが、そのひとの人間関係に変わっていくことです。縁とでもいうか。己で選んだことですから。縁というこは、仏教の捉え方であって、他は知りません。元々は、己が選んだことです。