この所知障は具体的に何かといえば、それは煩悩障(習気)である。喩えていうなら、汚物を取り除いた後にも悪臭が残り、これを完全に消すのは容易でない。それと同様に、煩悩障をすべて断ち切っても、煩悩の微細な影響は残存し続ける。これが、所知障であり、それを完全に段滅しない限り、一切相智である仏陀の境地は実現し得ない。

所智障について、チャンドラキールティ(月称)の「入中論自注」第6章では、「無明の薫習こそ、所知を完全に断ち切ることの障害である。」と表現している。

これを受けて、「中観密意解明」では、「煩悩の種子一切が尽きた子とにより、もはや、諦執は生じないけれど、薫習に汚された子とにより、顕現境に対して迷乱を起こす心を生じるのだ」と解説を加えている。

 

無明という煩悩が存在するうちは、知るべきもの(所知)を本能的に実体視し、所知が真実として成立しているかのように誤認してしまう。

これが、諦執である。そして、煩悩を種まで根こそぎ取り除いたときー還元すれば、九段階の修惑をすべて段滅したときーこうした諦執は生じなくなる。

 

しかし、まだ煩悩の薫習が残っているので、その影響で所知の顕現をーたとえ実体視しなくてもー迷乱とともに知覚してしまう。

 

このように、嫌がらせでしたことも、己に変わります。よって、己で、業を変えたということで、責任はありません。己が悪い。ということです。また、見栄、無知によることです。ですから、カルマが悪くなっても仕方ありません。もとには戻らないでしょう。元々です。もっと悪くなるということです。から自分に戻ることはもう無理です。それを行為した時点で、発生したカルマということで、新たに己で作ったということです。

それだけ、無意識は怖いということです。そして、どんなに心を変えて、精進しても、行き着くところで、結局は、人を惑わせたということで、己の薫習によって、永遠に、迷乱に陥ることで、迷乱から来ることは、もとの木阿弥に戻ることです。それを知覚してしまう、しかしです。それを知ってもどうすることもできないということです。

 

よって、業のまだいい関与していない人の思い、宗教があれば、それなりに助かるかも知れませんが、永劫成就は無理であり、またどんなカルマを発生させるか、ということになります。

 

わかっていても、やめられないということと、同じです。きっと、そのような人と同じ境遇に陥ることでしょう。

そして、忍耐もできずに、己で考えることもしないで、人に教えてもらっている、聞いたりしているということから、そこでストップということです。それ以上の、精神的、もしくは質等の人間性も問題にもなりますが、年をとればいい人、かっこよくなるとかという、逸話も無視ということです。これは神道の考えですが、味のある人間とかです。芸術では才能、書き方が変わったとか、等です。声の質とかです。

 

いい人を引き寄せるとは、そのようなことです。だから、いい人がよってくるということでしょう。類は友を呼ぶです。また、業も同じです。