いつもは。

これから昨日の続きです。確かに机でしたが、同じことをいてました。これはどっち?です。いつもその考えた言葉が途中変えられ、しかし、その部分が変わっているだけです。しかし、それが自分の感情の違いもあります。何となくということです。

 

だから、まず最初に自分のことを知っておく必要があります。それからです。そして、同じまちがったことをしないようにするだけです。あのときはです。しかし、いつかはチャンスが訪れます。そのチャンスをつかむのは自分です。それからでも遅くはありません。それには努力しかありません。いつのまにか抜かれたよりも、その努力を自分で称えることができ、公開しないようにすることです。あのときよりも、それでもやったよねとちょっとでも、といえるぐらいの自分を持っていた方がいいと思います。

 

それから昔は始まりました。ただ、それを聞いていたかどうかです。たぶん広まれば、きっと嘘をつく人もなかにはいます。しかし、そのような考えにも及ばない人が多いとは少し、ビックリです。無知過ぎ。ちょっとあれです。だから、宗教に導かれるのかとも思います。がしかしです。それができていても、いく人はいますので、きっともっといい教えが広まればということですが、それには自分での行動力です。確かに、昔は、詩人で、新興宗教に入っていた人もいます。一緒に話を聞きに行ったこともありますが、しかしです。ある程度の教養があれば、どうやらと思います。し、また、それに引っ掛かる人もいますので、なんだか変と思います。それがです。確かに社会では、仏教濃くから、称賛されるというところもありましたが、それは全くのヤバイことで、その教え自体が間違っています。これはです。ヤバイ。というよりも、入らないとわからないことですし、そして、たてまえはきちんとしていて、わからないと思います。今回の常識というか、マナーでしょうか?しかしです。教え自体は全然間違っています。あの傲慢なことから始まった教えをです。そして、そのようなことから、新道の教えに鞍替えをし、悟らせるということです。半強制です。今の流行りの密教と同じやりかたで始まっています。我慢に我慢をさせ、そしてです。その常識を利用し、そして、それからからだ、メンタルを壊してからです。それが、密教といってますが、果たして、どうでしょうか?自分の感情の怒りを利用しているわけですから。それがただしい密教といえるのかどうかです。

 

それは地獄としてしかありません。自分のからだを痛めて、それから、感覚の麻痺です。それがカルマを抜けたというのかどうかです。感覚の麻痺です。それは違うと思います。だって、感覚がなくなるのですから。それは地獄としか言えません。足が痒くなるか、感覚がなく、膨張です。それ以上の感覚はどうなるのか?

密教とはです。添えを知らずにした性で、おかしなことが起こります。そして、やっていたから、聞こえるということです。昔は流行っていましたから。

ということです。終わり。