悟り

父のkとではひとつだけというか悔やむことがあります。それは昔、私がまだ、すくなからず健全だった頃、毎日父の晩酌に付き合ってましたが、体重が増え、お酒をのむのをやめよと思い、一緒に晩酌せずにし始めました。さらっと2階に顔を会わせて、上がりましたが、やはり、仕事場でも、声をかけるということで、円滑に進むと同じように、心配り都でもいうのでしょうか?それをしなかったことを少し悔やんでいます。他ではしなければいけないことナのに、なぜかその時にはっきりと太ったからといって、お酒はやめるといえばよかったものの、お酒のまない

など、いったような気がするだけで、その時はいらないとか言ったような気がしますが、それ以上にそのことばを付け加えればよかったと後悔しています。ことばが足りないと母もよくいってました。自分のことを。だからではないですが、その一回です。よって、一言添えることが自己愛着のように見えますが、その一言を添えるだけで、変わることもあると思うと、一概に自己愛着とは言えません。それに、自分とにた日とがよってくるとするならば、その一言がとても嬉しいとか、嫌われてないとかあります。心ってそんなもんですよね。なんだか心配をかけるとか、どうしていっていかないのと子供のしつけでも同じです。

 

そして、昨日のテレビでも、ありました。3人の人がいましたが、一人は、無知による犠牲者?、もしくはそれ相応ですが、錆びというか手付かず、そして、もう一人は体育系の元スポーツマン、そして、無知というか、タマスでの努力すれば、できる人、その中でも、それに気づくかどうかですが、元々の日本に近い状態の人でした。健康についてですが、皆さん体が固い、まあ、精神的なものと、体ですが、スポーツマンといえども、体は固いです。極めつけ、密教SBDをしても、無理ということです。筋肉、アスリートといえども、とるに足りません。及びません。それを自分はアスリートと自慢げに密教SBDもできるという自負はやめてほしいです。仏教を冒涜しているとしか言えません。いったい誰がきめたのですか?だから、才能どころか、中途半端です。すべてが、だらしないということです。社会は厳しいです。自分の思いでいるだけで、ナルシストでしか過ぎません。だって、人から聞いてしかできないのですから、それを自分一人で悟ったという傲慢さが(´~`)といって、いいほど、頭にきます。また、何様のつもりというと、じゃあ、誰かを雇えばという感じで、人はいません。よって自分しかという思い上がりも見受けられますので、さらに。